つぶやきです。
ケータイはケータイであってPCではない部分が大事だと思っているんです。
ケータイはかなりのことができる。とても便利。場合によってはPC以上の利用価値がある。持ち運べるし、手軽だし、移動先でアクセスできる。でも貧弱な入出力デバイスはいかんともしがたい。
最近私は、自宅でも学校でも17インチ液晶1280×1024でPCを使うのが当たり前になって、もう1024×768じゃ小さいと思えるようになってきました。
考えごとや編集作業をする上で、読みかけの本を机の上にいくつも開くことは必要なわけで、たくさんの情報を俯瞰したり一覧したりするのはやはりPCでなくては無理です。私は。
つまりケータイとPCは補い合うデバイスであると思います。最近、生徒にそのことを気がつかせられないといけないなぁと感じるわけです。
ケータイで済むならケータイでいいんですけど、PCも使えると便利だよ。ケータイだけの頭で「それでいい」と思ってしまうのは余りにもったいないよと。ケータイの画面サイズではケータイの画面サイズ分の頭の視野しか広げられないのではないかと。
そんなことはないという人は、恐らくPCも使っていて、PCの感覚でケータイを使いこなせる人なのではないかと。
自分のやり方がへたくそなのかも知れませんが、ケータイで何かを検索したときにうまく調べられることが余りに少ない。あの狭い画面で何画面もめくっている時間のじれったさというかイライラ感がたまらなく嫌です。
もう一つ。
「インターネットが変える世界」のエントリで考えていたのは、実は、「今は、あの本に書かれているような未来になっていないなぁ」ということ。
その一つが、インターネットそのものを「見る」ものであって「発信する」ものではないと思っている人たちの存在で、実はネット人口の大部分を占めています。初期の(90年代の、といいますか)牧歌的なインターネットは情報を受けるのと同程度に「発信しなければならない」という使命感のようなものがありました。ですから、私にとってインターネットは、かなり「発信するメディア」の割合が強いと思います。このブログもその延長です。自分が気がついたことは、他の人にもためになる(はず)。そこで、インターネットから受けた恩恵は、インターネット上に返そうというものです。
しかし、彼/彼女たちは、インターネットとテレビはほぼ同じ感覚。そして中間に「テレビ+電話(メール的)」だと思っている人なんていうのがいるのではないかと。
校内のとある先生が、「掲示板の名前の欄をクリックするとその人の入力したURLにジャンプする」ということが「かなり高度なこと」だと思っていたことにがく然としました。結構パソコン使っているんです。この先生。
つまり今まで掲示板に書き込んだことが一度もないんでしょうね。もちろん自分のサイトを持ったこともないと思います。だから名前の欄に名前を入れて、URLの欄にURLを書き込むと自動的にそうなることを知らなかったんですね。たったそれだけのことなんですけど。
パソコンを使えるということとインターネットを活用することに全く隔たりがあるとは思っていましたが、ただインターネットを見ているだけの人と情報を発信する人ではまた次元というか相転移のような変化があるんだなぁと言うことを改めて感じた次第です。いい例えじゃないかもしれませんが、F1レースを観戦するのと実際に自動車を運転するぐらいの違いなんでしょうか。
早いうちから「発信する」ということの素晴らしさも恐ろしさも肌で感じてもらいたい。例え学校という教習所の中だとしても。そんなふうに思う今日この頃です。